自己啓発本は私を救わなかった

皆さんは、自己啓発本を読んだことがあるだろうか。

世知辛い世の中で、身と心を削りながら一日一日を消化するだけの日々。

思い通りにならない同僚、希薄な友人関係、冷え切った家族関係。

何とかそんな人生から脱却したい、そんな凡人をターゲットにした印刷物のことを自己啓発本という。あるいは、YouTubeが発展した今は、お金を払わずともたくさんのビジネス系のノウハウ情報にアクセスできるようになった。

何をかくそう、私は大学生のころにこの自己啓発本やビジネス系コンテンツにはまり、当時売れ筋ランキングにあったビジネス関係の本をすべて買い、沼にはまっていた過去がある。

しかしながら、私の実体験として、これら自己啓発本は私の人生・キャリアに対し良い影響をほとんど与えなかったどころか、逆に有害ですらあったのである。

自己啓発本は貧乏人向けの嗜好品

自分が自己啓発に出会ったきっかけとしては、自分で稼ぐ方法を探していたことだった。

当時のわたしは大学に意味を求めるあまり、ほかの学生の怠惰さや意味のない行事の多さ、なんの面白味もない授業に辟易し、なんとか大学に行かずに済む方法はないかと考えていた。

また、数年後には会社員となり世の中の歯車の一部になることに対しても極度の不快感を覚えていた。そこで、ブログや投資などで自分ひとりでお金を得る手段を得れば、こういった自分の現状から逃げ、すばらしい未来が待っているのではないか、と考えたのである。

そこで、数冊、お金や副業や起業に関する本を買ってみた。それらすべてで共通しているのは、金を稼ぐには具体的な方法論ではなく、「マインド」というものが大切であり、それさえあれば成功間違いなし、ということだった。

私は、その「マインド」を知りたいと考え、それらの本がおすすめする本を買い、Amazonのビジネスジャンルでのランキング上位をカバーするようになった。

自己啓発本は私を救わなかった

私の世界はそれから180度変わった。

私のいる世界は実に狭く、人生の貴重な時間をくだらないことに費やすことを半強制させられており、なおかつ社会はそれをあたりまえのことだと洗脳しているのだ、と思うようになった。

あらゆる人間関係を断ち、成功するには孤独になるしかないと思った。

大学はいかなくなり、バイトもいかなくなった。代わりに、自分でビジネスに挑戦した。

しかし、結果としてそれは間違いだった。

孤独になった後、私は何をしていいのかがわからなかった。

ブログ、アフィリエイト、YouTube、情報商材、株、プログラミング、転売、仮想通貨・・・

様々なトレンドに手を出した。そのたびに挫折し、疲弊していくだけだった。

SNSも開設し、情報発信しようとしたが、私には発信する内容がなかった。

無理やり、うすっぺらいノウハウを発信した。すべて自己啓発本の受け売りだ。

当然、まったく反応はなく、すぐに更新は止まった。

半年ののち、ただ焦りのみが残った。

そんな私を救ってくれたのは、あんなにくだらないと思っていた大学やバイトであった。

毎日授業に行き、友達と世間話をするだけで、私は存在していいんだと思えた。バイトで忙しくしていれば、薄給でもうっすら楽しいし、生きていけると思えた。

自己啓発本を読んでよかったこと

それでも、自己啓発本を読んでよかったことを上げるのなら、いろんな挫折をできたことだ。

あるいは、自己啓発などなくても、自分でやりたいことに飛びつき、壁にぶち当たり、成功したり失敗したりできる人間もいるのかもしれない。

しかし、私はあのとき、自己啓発に背中を押され、様々な挑戦ができたのも確かなのだ。

中国に短期留学する決心もついたし、本気でどうすれば自分でビジネスができるのかを試行錯誤するきっかけにもなった。

今思えば、自己啓発本で見た内容は、成功した人間の断片的な主観に基づいた根拠のない話で、再現性がないのにあたかも誰もがそうなれるという呪いですらあった。

それでも、自分が今その評価を下せるのも、その間違いを判断基準にして人生を送っていられるのも、あの時自己啓発にすがった結果なのだろうと思う。

後、これは蛇足だけれど、スピリチュアルは単におかしい思想ではなく、あれはあれで、歴史があり知的好奇心をくすぐられるものだと気づくきっかけにもなった。

自己啓発とスピリチュアルは似たところがたくさんあり、実は私たちの身の回りにも影響を受けたものや言説が多くあるという気づきは、私には得難い衝撃であった。

ポスト自己啓発時代をいきよう(締めのポエム)

もう、根性論などの古き良き思想が通用しない時代に突入している。

だからといって、今までのものになんの意味もなくなってしまうわけでもない。

その都度、その都度私たちは自分がそう生きるのを許容できるのかを判断し、後悔したり、受け入れたり、そうやって生きるしかない。

だから当然、私たちの判断基準はブレブレになるはずだ。前言ったことと、未来言うことが180度違うなんてざらになるだろう。

でも、それでいい。

私たちは生きながら、自分による自分の自分のための人生哲学を練り上げたり、あるいは崩したりして、せめて生まれてきてよかったなと思えるような選択をしていくくらいしかできないのです。

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